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頭山満について
アジアと日本の魂(こころ) ― 武士道精神の継承を

 大隈重信副島種臣東郷平八郎中江兆民西郷従道等名だたる人々が、一様に頭山満翁のことを東洋的巨人としてその輪郭の大きさを評価していました。
  「一人で居ても寂しくない人間たれ」が若者への言葉でしたが、頭山翁がそこに存在しているだけで、四方八方からの懇請が片付いていったとも言われています。
  そんな頭山満翁の歴史的顕彰をと、平成18年2月17日に1700名の皆さんが明治記念館に集いました。その際に寄せられた様々な方の人物評価を、趣意書とともに記載しました。150年余経った今日でも頭山翁の存在がこれほど大きいことをあらためて認識しました。

頭山満画像
頭山満翁誕生百五十年祭

「祖父を思う」
祭主 頭山興助(社団法人農村資源開発協会理事長)


昭和十三年、米紙「クリスチャンサイエンスモニター」のウィリアム記者が、祖父頭山満に大アジア主義の促進について質問したことがあった。
「それは、白人の支配が東洋から消えるまでの間に過ぎず、そういう時代の招来の為に、今まで自分の出来ることをやって来た。東洋の人民を助けるのが、日本の宿命である。その後、真のアジア民族の兄弟相和する時代が来て、文明に新しい何物かを示すこととなるのだ」と即答したそうです。
明治維新以降、近代日本は一息つくことも出来ず、世界の潮流に翻弄されるようにずっと戦い続けて来ました。
そうした祖父の気概があったからこそ、アジア各国の独立にも繋がり、大きく世界史を変えたのでした。そのことはむしろアジアの人達の方が正しい評価をしてくれているきらいがあり、戦後の日本においては祖父の名とともに歴史から遠ざけられて来ましたが、今回の百五十年祭を機に、歴史の真実が直視されることを強く望んでやみません。

祖父を思うたびに、アジアと日本のこころ魂が交差し、真摯に尊皇と武士道精神の継承が必務であることを深く認識するとともに、多くの有志の皆さんのおかげで、意義ある試みを結実させていただきますことに心から感謝申し上げます。

「政治家としての目標・犬養毅
発起人代表 平沼赴夫(元経済産業大臣)


近代百年の政党政治を見るとき、その存在の重さを知らされるのは、昭和初期に非命に斃れた木堂、犬養毅であります。
政党政治家としての存在と同時に頭山翁との強い絆で朝鮮からの亡命者、金玉均や朴泳考を庇護し援助をしました。

又、孫文宮崎滔天の紹介により犬養や頭山と相知り、二人は近隣地域の志士への終生の理解者であると共に革命の援助者でもありました。
今日の北京政府も日本から受けた近代の文化的思想的な恩恵は、公然と認めております。
私は、郷里の大先輩である犬養毅を常に誇りとし、政治化像としての目標にし、今日に至ってきました。
さて現下の問題ですが、小泉首相の下で「皇室典範」をテレビ的世相の流行に迎合して、短兵急に改訂しようとしております。
皇室の文化伝統、即ち、わが国の文化根源の継承の在り方をいとも安易に改悪するわけです。
その意図は何か。一見は皇統の絶系を恐れるという名分を掲げてはいるものの、日本が不易に誇りうる皇室の伝統を軽々に改変しようとする小泉内閣の方針に、政治家として身命を尽くし阻止することが尊敬する犬養木堂そして祖父、騏一郎の精神と至誠を継承することであると決意しております。
「戦闘精神の継承」
発起人代表 稲葉稔(明治神宮至誠館館長)


  その精を全くすれば則ち気雄(たけ)し
  その神を全くすれば則ち威大(おほい)なり

若き頭山満は、西郷隆盛が起った第二の維新の戦列に加わることができなかったことを悔いた。そのことが生涯を通じて武闘決起の思いをもちつづけ、真に武威を張る修行をすることになったと解しうる。理想とする武人像は、天皇の命を全うしつくしたヤマトタケルノミコトであった。
その秘めたる威力は、国家権力のなかで最強といえる物理力をもつ警察力でも、計りがたく、対決することを避けたといわれるほど高いものに達した。冒頭の頭山の揮毫には、そこにいたる精・神の修養の深さがうかがえる。
西郷南洲の遺訓にみえる文武の意味合いは、
文ハ鉛粟(文筆の業)二非ザルナリ 必ズ事二処スルノ才アリ 武ハ剣楯(ケンジュン)二非ザルナリ 必ズ敵ヲ料ルノ智アリ才智ノ所在ハ一ノミ
というものである。事を処する才も、敵を料る智も、その所在は一つとある。いずれも腰腹に帰して一つと考えるべきか。夢寡(ねていて夢をみる)の間でも英雄先人の豪勇さを学べと教えた西郷の修養の重さが感じられる。
その大西郷の戦闘力に憧れ、頭山翁を生涯の師と仰いだ葦津珍彦の真の戦いは、頭山が没した翌年、日本が未曾有の敗戦を期し占領され、天皇統治の国体の変革を迫られた民族の危機に始った。それは国民の側に多くの犠牲をだす武力抵抗戦ではなかった。破壊され傷ついた伝統文化と民族精神の復原で、日本の固有の文化の防衛という戦いであった。葦津の戦闘力の源は、父祖の霊魂と頭山の道統と威厳、寤寐(ごび)憂国の至情にあった。
その目標は、現憲法と皇室典範から消えた天皇条項の再確立にあり、四十有余年の逆境下の長い戦いとなった。その決戦は、来るべき改憲の時で、皇室の尊厳と祖国の光栄を回復する時である。大和魂に基く、武士道精神の再現が待望される所以である。
「気高い日本精神を受け継げ」
発起人代表 加瀬英明(外交評論家)


日本は明治があけると、西洋の圧迫を撥ね返し、国際社会において確固たる地位を占めることによって独立を全うすることが、もっとも大きな国家目標となった。そのために洋化を進めることが、急務となった。
日本のもう一つのロマンが、アジア諸民族を援けて、その独立をはかることだった。これは日本民族の正義感から発したものであるのとともに、西洋の脅威に対抗して、日本の独立を強固なものにするものとみなされた。
だが、この二つのロマンは矛盾するものだった。日本の独立を保全するためにも、アジアを解放するためにも、何よりも日本が力をつけねばならなかった。日本が国権を強めるためには西洋に倣い、協調しなければならなかったが、同時にアジアを救うことを望んだから、二律背反した道を歩むことになった。
岡倉天心が「アジアは一つ」と喝破したが、アジアという地域名はもともとアジアで生まれた言葉ではなかった。ヨーロッパでトルコ以東を指す言葉だった。アジアには今日でも異質なさまざまな文化が混在して、あたかも雑居ビルのように多様である。
明治の先人たちはまず隣国の朝鮮の覚醒を促し、中国が自立することを援けようとした。ところが、李氏朝鮮と清朝のもとにあった中国は、救い難いまでに混乱していた。しかし、先人たちはそのような困難を超えて、アジアの未来に大きな美しい夢を描いた。
頭山満翁をはじめとする日本の志士たちがアジア諸民族を援け、利他的な国民運動を行った。アジア・アフリカの民は二十世紀の後半に入ってから解放され、数世紀ぶりに自由を回復したが、理想世界という大輪の花を咲かす種を播いたものとなった。
頭山翁を中心とした志士たちが証したように、日本人は世界のなかでもっとも精神性が高い民族である。頭山翁生誕百五十年祭に当たって、日本古来の気高い精神を受け継いで、次の世代に伝えてゆくことを誓いたい。
「豪傑・翁・巨人」
作家・評論家 松本健一


中江兆民の『三酔人綸問答』における「三酔人」の一人、「東洋豪傑君」のモデルが頭山満であったことは、よく知られている。中江兆民と頭山満は、近代日本の左翼と右翼の源流に位置づけられるが、かれらは無二の親友だった。兆民は咽頭ガンで死の床についたとき、見舞いにおとづれた頭山に対して、「伊藤山懸ダメ、アトノコトタノム」と黒板に書いたといわれる。
頭山満は昭和十九年に八十九歳で亡くなった。敗戦の一年前である。戦後、「豪傑」とよばれるような人物は、見当らない。
また、頭山は三十代のころから「翁」とよばれていた。かれは安政二年(一八五五)の生まれであるから、玄洋社を創立した明治十二年のほどなく後のことであったろう。頭山の敬愛する西郷隆盛(南洲)が「翁」とよばれたのも、三十代のころであったらしい。
それに、伝記に「巨人」と冠せられているのは、「巨人頭山満」(藤本尚則著)と、大本教の『巨人出口王仁三郎』(出口京太郎著)の二つぐらいではないだろうか。
これら、「豪傑」の呼び名にしろ、三十代での「翁」にしろ、「巨人」の称号にしろ、戦後は忘れられて久しい。それはすでに、存在しなくなったものなのであろう。
では、その頭山満が若者たちに与えた、「一人で居て淋しくない人間になれ」という言葉は、すでに意味が失せたものなのであろうか。そう考えると、「豪傑」や三十代での「翁」、そうして「巨人」が見当らない現代のほうがはるかに淋しい時代なのではないか、と深刻に思わざるをえないのである。
「頭山・葦津の精神継承と現下の危機」
憲法・皇室法研究者 田尾憲男


私は三十年近く師事した葦津珍彦先生から、頭山翁は「沈才沈勇の人」だったと教わった。それは頭山満が自ら語ったといわれる「才は沈才たるべし、勇は沈勇たるべし、孝は至孝たるべし、忠は至忠たるべし」に基づく評である。頭山はまた「千万人といへども吾往かん」の決断と行動の偉人だった。
頭山には、近代のナショナリズムとインターナショナリズムの両面での情感と行動が著しかったが、彼の精神の源泉であり、生涯の戦闘の拠点となったのは、筑前玄洋社であった。明治十四年に立てられた玄洋社憲則には、
  第一条皇室を敬戴す可し
  第二条本国を愛重す可し
  第三条人民の権利を固守す可し
が掲げられていた。この皇室敬戴・国家愛重・民権固守の三則は、日本国民が重大危機を迎えた今日、改めて強く意識して考えるべき大事な信条ではないかと思う。
敗戦で明治の帝国憲法は、敵占領軍によって根本的変革を余儀なくされた。今日、漸くその本来の姿に戻すべく改憲の時期を迎えようとしている。戦後六十年経つも、憲法は未だにGHQが作った人格否定の「象徴」天皇のままで、しかも軍備を放棄して国の安全を他国に委ね、国土の島嶼も、拉致被害者とその家族の人権も守れない。その上、二千年以上に亘る「万世一系」のわが国皇室の歴史伝統破壊の企てまで具体化してきた。皇室と国家と国民にとっての一大危機である。
頭山翁が亡くなった後の敗戦後の危機にわが国が直面した時、占領軍GHQに対する抵抗の戦闘に立ったのが、葦津珍彦であった。葦津は、父耕次郎との縁で、少年時代から頭山の薫陶を受けた在野の戦闘的神道思想家であった。自ら天皇と神道の社会的防衛者を任じ、神社新報社を拠点に鋭い論陣を張り、民族派の理論的思想的主柱として、隠れた数々の事蹟を残して平成四年にこの世を去った。
現下の我々の最大の目標は、皇室典範の改変阻止と憲法の日本的改正である。その闘いの指針となるものは、頭山の志と魂を最もよく継承した葦津の精神と思想である。頭山と葦津の精神は、これからも日本国に忠誠なる人々の戦いを励まし続けるに違いない。
「百五十年祭に寄せて」
マレーシア駐日大使 ダト・M・N・マルズキ閣下


頭山満生誕百五十年祭の挙行に際して、マレーシアを代表してメッセージをお届けできることを大変光栄に思います。
かつてマレーシアは、英国の植民地支配に置かれ、国民は自信を喪失していました。マレーシア国民は、英国は無敵だという神話を信じ込まされてきました。この神話を打ち砕き、国家の独立を促す民族的覚醒をもたらしたのが、日米開戦後の日本の進攻と、それによる、マレー半島からの英国軍の敗退でした。
日本の占領は決して歓迎されるものではありませんでした。ただ、私は、英国をはじめとする西欧列強の植民地支配に抗して、アジア解放を志し、アジアからの亡命者を支援した在野の思想家や活動家がいたことを伝え聞いております。
結局、日本は戦争に敗れ、国土は無残に破壊されました。この廃墟の中から日本人は再び立ち上がり、見事に戦後復興を成し遂げ、アジアの経済発展を牽引する経済大国の地位を獲得しました。
だからこそマレーシアは、マハティール前政権発足直後の一九八一年に、日本や韓国を手本とした経済発展を進めるために、ルック・イースト政策を掲げ、一貫してこの政策を維持、発展させて参りました。すでに一万五〇〇〇人のマレーシア人が日本で研修を受けました。現在、二〇〇〇人の留学生が日本の大学や専門学校で主に科学技術分野を学んでいます。
二〇〇五年一二月一三日には、マレーシアと日本は自由貿易協定(FTA)を核とする経済連携協定に署名し、両国経済の一層の緊密化が期待されております。一方、マレーシアは東アジア共同体設立に向けた日本のイニシアティブに期待しております。
アジアの独立と繁栄のために貢献するという高い志を回復し、日本が主体的なアジア外交を確立することを期待しております。有難うございます。
「玄洋社精神と私」
前福岡県議会議員 内田壮平


玄洋社精神と私との出合いは約五十年前に遡ります。当時六歳であった私が、亡父義徹が幹事長をしており、また玄洋社精神的支柱であった柔道場『明道館』に入門した時がその始まりでありました。玄洋社等何も知らない私が今なお鮮烈に覚えているのは、春吉に居を構えておられた末永節翁を亡父に連れられて訪ねた時でありましたが、その居のたたずまいと、入れ歯を出し入れしながら私に何やら話しかけてこられた翁の姿とに、何かしら底知れぬ畏敬の念を子供心にも持ったものでした。
それ以来、明治十年福岡の変の墓地の清掃や慰霊祭等を毎年重ねながら、郷土福岡が生んだ幾多の先覚者が、玄洋社精神に育まれたことを知るにつけても、その骨格の中心にいつも頭山満翁の精神が脈々と生きついていることを覚るのであります。
今日頭山満翁が生きていたならば、世界をアジアをどう憂い、日本でどんな行動を起こしたであろうか。今という時代を生きた証をどの様に体現したであろうかといつも考えながら歩んで参りました。
そして私なりの一つの結論として、八年前に憲法施行五十周年を契機に、日本の戦後の骨格を運命づけ、日本精神を籠絡して来た占領憲法の現憲法の改革を断行しなければならないと決意して『憲法改革連合』を福岡で結成し、改憲運動に邁進して参りました。まだ道半ばではありますが、頭山満翁生誕百五十年祭にあたり、謹んで玄洋社憲則に法った憲法改革を願うもの切であります。
「父を偲ぶ」
神社新報社社友 葦津泰國


西郷・頭山翁の抱いた精神を継ぎ、日本の個性を残すのに生涯を捧げた父珍彦が去り十三年になる。
志を継承して活躍する人はいるが、今の日本は歴史に秘められた心を洞察する慎重さとは無縁の力で暴走し始めている。敬神崇祖の気風は、お題目としてのみ生きていて、現実は先祖が練り上げた知恵より、歴史のエキスとは脈絡無き思いつきで判断する独善軽薄の気風が充ちていて、それは日本の根核である皇室制度にまで変革が及ぼうとしている。将来への思慮も無く、単に頭で考えて、物理的存続のみを考えて変質させてみても、皇室がそれでも国民の精神的核となり続け得るのか。私は否定的だ。
「皇室というもの」は残っても、それは皇祖への信仰とは似て非なるものになるからだ。日本はどこへ行くのか。毎月、父・祖父の展墓をするたびに奉告することは、わが国が、信仰や精神を追放して、無機質な世俗国家に流されていく現状である。残された我々が、こんな危機を乗り越えるにはどうすればよいか。底知れない不安を感ずる昨今である。
「頭山翁と私の父」
東京都知事 石原慎太郎


私の父は山下汽船の社員でしたが、若い頃親日家の汪精衛を日本に迎えてかくまうべく、社主の山下亀三郎に命じられ上海におもむいて同道したそうで、そんな縁から汪精衛をかくまった頭山満翁の知己を得たそうです。ということで、翁から貰った翁の書が我が家に何点かありました。その一点は『家和万事也』というのを何故か鮮明に覚えています。
後年、父の配下に頭山翁の信奉者がいて、翁が夏のある日大切な話し合いをしていた時、頬にたかって肌を刺す蚊を全く気にせず、やがておもむろに顔を振ったら血を吸い尽くして動けなくなった蚊がぱらぱらと畳に落ちたという挿話を聞かされたものです。
今の日本、かかる骨太な日本人、真の国士は全くいなくなりました。
「真の頭山満研究を」
衆議院議員 金子恭之(農林水産政務官)


GHQが玄洋社をいくら調べても、侵略主義の秘密結社などという証拠は何も出てこなかった。頭山満翁は戦前はあまりにも神格化され過ぎ、戦後は歴史から故意に無視され過ぎて来ました。そのいずれもが正しい態度ではなく、この百五十年祭を機に等身大の頭山翁の姿が明確になることを望むものです。
東久邇宮著「私の記録」には「頭山翁は、衰運に乗じてその領土を盗むようなことが非常に嫌いで、朝鮮の併含も反対、満州事変も不賛成、日華事変に対しては、心から憤っていた。翁の口から蒋介石に国際平和の提言をすすめてもらうことを考えた」というくだりがあります。
日中和平を行えるのは頭山翁しかないという宮の思いで、蒋介石との会談が実現しかけた最後のチャンスがあったそうですが、政府に握りつぶされたと聞いています。ようやく歴史を正しく語れる時代になりつつある今日、真の「頭山満研究」が求められているのではないでしょうか。
「政治家への示唆と六〇年目の総括」
衆議院議員 河村たかし


今年生誕一五〇年を迎える巨人、頭山満は終生西郷隆盛を尊敬し、内政・外交に多大な影響を与える活躍をしながら政治家にも役人にもならず無位無冠を貫きました。また、国家・社会に対する我が身を省みない奉仕の精神と、至誠・無私の資質を持つ人でした。
西郷・頭山の精神は、私の理想「公僕(パブリックサーバント)の政治」に通じ、その生き方は、現代においても政治に携わる者への示唆に満ち、再評価されるべきと考えます。
戦後六〇年を迎える今なお、当時の政治家や官僚たちの保身や組織防衛のために、全国民に対する厳しい政治責任、すなわち軍人軍属のみならず空襲や原爆、シベリア抑留など多大な犠牲を払った無数の一般国民に対して、失政を正式に謝罪し犠牲への感謝を述べる責任は、うやむやにされたままです。
戦後の無定見な外交や国民を軽視しがちな国家運営はここから始まりました。
『身を殺して仁を成す』頭山の無私の精神からの総括が必要です。

「生誕百五十年に寄せて」
元福岡県筑紫野市長 楠田幹人


吾々福岡出身の者としては、これだけの巨人を郷土から輩出し得たという事を、大いなる誇りとしておるのであります。
明治以降の吾が福岡人は、指導者たらむと考える人間程、やはり頭山満翁の薫陶を何等かの形で受けて育ったと思うのであります。
福岡が生んだ唯一人の宰相広田弘毅、東條内閣に抗して割腹してこの世を去った中野正剛、総理になる直前に忽然とこの世を去った緒方竹虎元副総理、これ等の人達が、まさにそうであったと思うのであります。
そういう国を思い、国家の行く末を考えるという素晴らしい風土を創って頂き乍ら、郷土福岡を含む吾が国のこの堕落は、どうした事でありましょう。
己の事しか考え無い、政治にたずさわり乍ら、公を考えず、自己の快楽のみを追いかける。こういう政治屋が多くなったからこそ、今日の吾が国の衰退はあるのだと思います。
私の楽しみは、もうあまりありませんが、私が謹慎中に、高校の先輩が連れて行って呉れた、福岡、西中洲にある小料理屋に知り合いと時々いく事位であります。そこには頭山満翁の素晴らしい一つの掛け軸があるからです。
それには、「断行鬼神避」と書いてあります。即ち、断じて行えば、鬼神も之を避くであります、今こそ、吾が国の現状を憂うる者達はこの頭山満翁の教えに従い、日本精神の復活に向けて、武者震るいしてでも立ち上がるべきだと考えます。

「『人間味』の尊さ」
衆議院議員 鈴木宗男(元国務大臣)


今、日本人の魂を持った政治家がいないとよく言われる。私自身、反省と自責の念を持って批判を受けとめているが、その時ふと頭に浮かぶのは頭山満先生である。
学生時代、佐藤慎一郎先生のゼミを受けていたが、孫文研究の中で佐藤先生がよく頭山先生のことを話されていたのを、今でも覚えている。
頭山先生が「世界の美味しい料理を食べたが、フランス料理、中華料理、トルコ料理、勿論日本料理も美味しい。しかし、どの料理よりも最高のものは人間味だ」とおっしゃっていたと、佐藤先生は講義の中でよく引用されていた。
頭山先生のこの言葉を聞く時、人を大事にする、人間関係を大事にする、そこに歴史をもつくる大きな流れになっていったと考える時に、百年経っても千年経っても変わらざる価値「人間味」の尊さ、重さを私は深く感じるものである。
頭山満先生の心を、今こそ多くの人に知らしめていきたいと考えるのは、一人私だけではないだろう。

「頭山満翁と佐々友房
衆議院議員 園田博之


私の郷土熊本は、幕末から明治にかけて多士済々な人物が輩出しております。
その筆頭は今日では忘れられてはいるが佐々友房、其の人であります。幼時、時習館に学び、長じ林桜園に後水戸派の学を究め、水戸に遊んで同藩の志士と交わります。後東京に出て副島種臣の知遇を得ました。
西南の役に加わり、負傷し入獄しますが特赦を受け二年後に出獄。
同志と糾合し熊本に「済々黌(せいせいこう)」を興し子弟を教育、それが今日の「熊本県立済々黌高等学校」であります。
大陸問題、特に対露問題に関心強く兄弟のように附合っていた頭山満等とは、人心鼓舞、国論喚気すべく奔走しました。
又、宮崎四兄弟の一人、宮崎滔天も挙げることができます。孫文と肝胆相照らし、中国革命にその生涯を全身全霊を傾注。孫文は「宮崎寅蔵君は現代の侠客である。君の見識は高遠、抱負は非凡、仁義の心篤く……」と。これらの諸氏は頭山翁を取り廻く熊本人士として、交誼は深く篤いものがあります。
私はそうした熊本人士が、近代日本を作り上げる大きな動因になったことに限りない感激を憶えます。
そして、その人脈が築いた精神の一端に連なる一人でありたいと思い定めております。

「偉大なる頭山満先生に学び行動する」
衆議院議員 原口一博(民主党総合政策担当大臣)


偉大なる頭山満先生の御偉業とその思想に接する時、国家とは何か?
自由とは何か?
国民を守るとは何か?
そして憲政の常道とは何かを考えさせられます。
玄洋社は、ありきたりの歴史書では、超国家主義的結社として記述されていますが、私は寧ろ、自由民権運動の結社としての玄洋社に注目しています。アジアに吹き荒れる風。列強の大きな力。急激な近代化。
日本の国柄を守るために指導者は、どうあるべきか?
時代を適確につかみ、自由を守るためになすべきことはなにか?
伝統とはなにか?そして歴史はどのようにして創られるのか?
人権と自由を唱えた江藤新平侯も佐賀の役に倒れられました。
明治維新の礎を創られた西郷南州候も酉南の役で既に亡きものとなっています。
両巨人なきあとの日本の政治は、藩閥政治の視野狭窄が、日本の自由を奪い国家を堕落させていったのではないでしょうか。
富国強兵の日本・動乱と革命のアジアの中で、頭山先生が重視されたのは、国境をまたいで活動する大きな視野の人物でした。殖民と開拓。自由と進取の気性がなければ、巨大な欧米に飲み込まれ、すりつぶされる時代です。
私の母校佐賀「講道館」は、長崎の出島の管理を行い、古くから海外の新しい知識を摂取して維新の人材を輩出した教育の中心地でした。教育の肥前、炭鉱などのエネルギーの筑前。
「千万人の敵をも一人で制する威力」をもってアジアの繁栄を導く人物こそが頭山満先生ではなかったか、と思います。
しかし、歴史は、明治の基礎を創った先達の労苦を裏切っていきます。「浅はかな熱狂」が起こり、その後は、無責任な政治が続いたからです。歴史を反省すれば、「浅はかな熱狂」の後にくるものの無惨さが符号をあわせたように一致していることに気づくことでしょう。
今まさに、小さな品性のない政治が跋扈(ばっこ)している時代です。
ビジョンを持たず自由を抑圧する攻治に、わが日本を乗っ取らせるわけには行きません。未だに頭山先生の評価も揺れ続けています。それは、評価の物差しそのものが小さすぎる理由からです。
真の日本を思い、行動する同志がここに先生のこ偉業を学び、国柄を学び、行動する礎ができたことを心から喜びたいと思います。
時代は大きく動き、世界は再び動乱に向かうかに見えます。天命に従い、懸命に行動してくことをお誓い申し上げます。

「頭山満翁の人間力」
衆議院議員 松木けんこう(北海道通信社副社長)


「胆力」という言葉がありますが、政治家にはその資質において最も基礎とする心のしなやかさだと思います。
頭山満翁は西郷隆盛のように、その豪胆な精神力と時代を見つめる直観力を兼ね備えておられた方だと私は書物で読みました。
戦前は豪傑ナンバー一として国民から慕われていたとも聞いています。
私は大物不在の政治の現実に身を投じながら、次世代に西郷・頭山に続く人材を輩出していかなくては日本の行く末がたち動かなくなってしまうと危機感を覚えます。
頭山満翁の思想は、右翼、左翼の範疇(はんちゅう)にくくられるものではなく、門下生の中野正剛が東条内閣に抗議して自刃した姿や、緒方竹虎が戦後の吉田内閣を支えたこと等、もっと幅の広いものであったことを物語っています。
その意味で生誕百五十年祭は時機を得た集いであると思います。

「天下一人の気概」
衆議院議員 松原仁


頭山満翁のことを考えると、早稲田出身の政治家として去来するのは「東条英機はいかん。日本をめちゃくちゃにしてしまう。国民の権利は何処に行ったのだ」と東条内閣の倒閣を展開しながら失敗し、大西郷全集を最後に一読して自刃した中野正剛です。
十二通の遺書は全て頭山翁にあてたものだったそうで、心から心酔していた。
「日本の巨船は怒濤の中に漂っている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君、自己に目覚めよ。天下一人をもって興れ」と一九四二年に大隈講堂で行われた名演説はつとに有名だが、今日の政治状況にそのままあてはまるものであり、その個の気概こそわれわれが忘れてはならないものである。
イデオロギーによって封印されたきらいがありますが、頭山満生誕百五十年祭を通じて、『天下一人をもって興れ』とする気概を政治家に復権しなくてはならないと思うものです。

「私の憲法論」
衆議院議員 保岡興治(元法務大臣)


わが国は、外国の占領下で制定した憲法を一度も改正せず、時代や内外の状況が大きく変化している中にあって、「国の基本」に関する法的対応をもっぱら政府の憲法解釈の工夫に求め続けてきました。
今、その限界が露(あらわ)になっています。今こそ、憲法制定権者たる国民とその代表機関たる国会が協働し、日本の新時代の幕開けにふさわしい憲法を創ることが必要です。
それは、頭山満翁が敬愛し、私自身が座右の銘にしている酉郷隆盛翁が残した「敬天愛人」という言葉に見られるような日本が誇りとする歴史、伝統、文化等を反映させて、全体としてみたときに「日本の顔の見える憲法」を作るべきであります。
最も重要なことは、独立国家として、わが国民の生命・財産を大切に守る観点から、自衛のための戦力保持を明記することです。そして、全体の文章は、わかりやすく美しい日本語で起草し、未来のあるべき国家像や社会を示すとともに、個人の尊厳を確保するためにも社会を支える家族や共同体を「人の幸せの器」として大切に位置づけるべきです。
今度の憲法改正は、日本の歴史が始まって以来初めて、「国民の投票」によって憲法を創るという非常に大きな意義をもつものです。
政治家として全力を挙げてこの大テーマに挑むつもりです。

「筑前玄洋社」
参議院議員 吉村剛太郎(玄洋社記念館理事)


玄洋社の象徴的人物である頭山満先生の生誕百五十年祭を有志の方々の発意により催す運びとなりました事、関係者の一人として心より賛意と敬意を表する次第です。
玄洋社はその源流を人参畑の『女傑』高場乱の教えを受けた頭山満・進藤喜平太・平岡浩太郎・箱田六輔ら情熱と活気にあふれた若い精鋭達によって明治十二年筑前福岡に創設されました。自由民権、アジア諸国の独立と友好に力を注ぎ、その波欄に富んだ活動は近代アジア史を語る上で欠かせない存在です。
しかし、終戦に伴うGHQの解散命令により、その活動は休止のやむなきに至りました。
しかし、最後の玄洋社社長である進藤一馬先生(元衆議院議員、のち福岡市長)が「玄洋社の姿を正しく後世に伝えなければならない」と昭和五十三年十一月に社団法人「玄洋社記念館」を設立し、書や書籍・写真など、その偉大な足跡を伝える資料を展示しております。
又、毎年頭山満先生をはじめかっての社員の慰霊、そしてその一環として広田弘毅先生(元総理)、中野正剛先生(元衆議院議員)や明治維新前後の勤皇諸烈士の追悼の会を行っております。
私も父が幼少の頃から当時(戦前)の玄洋社の寄宿舎から旧制中学修猷館に通い、成人後も中野正剛先生の門下生として、前述の進藤一馬先生、長谷川峻先生(元衆議院議員)、永田正義先生(元熊本県・人吉市長)等と交流を重ねていた関係上、今日、玄洋社記念館の理事の一人として、その精神の涵養に努めております。
本来、玄洋社は「革新」そして自由民権、アジア主義と同時に皇室尊崇であります。
今日「改革」の名の下に日本の良き伝統と精神文化が破滅の危機に瀕しております。今こそ、玄洋社の精神を見つめ直し、そして我が国の将来について深く考えねばなりません。
その意味から今回の頭山先生、生誕百五十年祭を心より歓迎致します。

「憲政発祥の地としての福岡」
衆議院議員 笠浩史(修猷館OB)


板垣退助が自由民権運動に立ち上がった時、これからは武力ではなく言論によって政府と戦っていかなくてはならないと直接説かれて、玄洋社に繋がる運動体が福岡に生まれました。その活動ぶりは士佐以上の盛り上がりを見せ、自主的に民間議会が生まれたほどで、頭山満翁は「福岡こそ憲政発祥の地」と演説していたほどでした。
そうした先進性と同時に、朝鮮半島や大陸と近い福岡の国際感覚は議会設立運動以上に、条約改正をはじめ日本の独立を守り、発展させて行くことの現実を見据えた活動の展開の重要性に気づき、アジアの独立を支援する運動へと結実して行きました。
私は郷里にグローバルな感覚を持った巨人がいたことに誇りを覚えるものですが、その生誕百五十年祭が盛大に執り行われ、現代にその意味を問われることに共感するものです。

「インドの独立民族主義運動と頭山満翁」
麗澤大学教授・筑波大学名誉教授 我妻和男


インドの東部、ベンガルのインド独立運動の志士ラシュビハリ・ボシュ(一八六六〜一九四五)は時の総督暗殺の嫌疑で追われ、秘密に日本に亡命して来る。
当時インドの植民地宗主国イギリスと日本は日英同盟を締結中であったので、英国大使館がインド亡命者の引渡しを要求すれば日本政府は引渡しをせざるを得なかった。しかし頭山満翁(一八五五〜一九四四)はインド独立の大義を十分に考慮して、窮鳥懐に入れば猟師もこれを打たずの警えの通りラシュビハリ・ボシュを秘密裡に危険を冒して匿うために奔走した。
結局新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光の娘俊子と結婚し暫く隠れていたが、日英同盟が解消されたので晴れて一九四五年に亡くなるまで日本を離れず、頭山満翁に恩義を感じつつインド独立運動に専心した。
アジアで初めてノーベル文学賞を受賞したタゴール(ロビンドロナト・タゴール)の一九二四年第三回訪日の際、ラシュビハリ・ボシュの熱意によって頭山満翁の日本民族主義者たちが盛大なタゴール歓迎会を行い、インド独立民族主義運動に関して頭山満翁と詩聖タゴール翁との会見が行われ、共鳴し合った。
次に独立の英雄、国民会議派の元議長シュバシュチョンドロ・ボシュ(一八九七〜一九四五)もインド国民軍を形成、独立運動を行ったが、頭山満翁は彼のことも激励した。ラシュビハリ・ボシユもタゴールもシュバシュチョンドロ・ボシュもベンガル人である。
ベンガル人は独立民族主義運動のために次々に殉死を繰り返し、タゴールの民族主義運動の歌を歌いながら断頭台の露と消えた。
一九二九年タゴールの第五回訪日の際、偶々頭山満翁は東京を離れていたのでタゴールに心からのメッセージを贈った。
頭山満翁に絶えず激励されたラシュビハリ・ボシュタゴールシャンテイニケトンの自分の学園にインドの独立のために青年子女の護身と身体強健を図らんと日本の一流の柔術家を推薦するよう要請された。
当時講道館五段の高垣信造氏を推薦した。高垣氏はタゴール学園の青年子女ばかりでなく、全インドから求めて来る人たちに柔術を教えた。後に高垣氏は講道館の国際部長になり九段の段位を与えられ全世界に柔道を広める行脚に出かけた。
またタゴールからラシュビハリ・ボシュタゴール学園で生け花と茶道を教える女性の先生の推薦方を頼まれ、彼の妻の姪で東京女子大でのインド贔屓(ひいき)の星真機(後に橋本真機子)を推薦した。彼女は学園でその役目を果した。
このようなラシュビハリ・ボシュの活躍も終止変わらない頭山満翁の激励があったからである。
そのことは歴史的に評価しなければならない。

「相手を包み込む偉大さ」
鹿児島大学教授 奥健一郎(元(財)天風会理事)


私が頭山満翁のことを本格的に勉強し始めたのは、中村天風財団((財)天風会)の理事を勤めていた時に遡る。
天風が、終生頭山翁を「生涯の恩師」として慕い続けていたことは既に知られているようであるが、中でも私が好むエピノードがあるので、非礼を顧みずここに掲載することとする。
玄洋社に預けられた中村三郎(天風の本名)の人間形成に、頭山は大きな指標となった。玄洋社には、気性の激しい、精桿な若者達がいた。真冬、石畳の上で柔道をやったという。三郎は、兄弟子達に厳しく鍛えられたが、決して弱音を吐くことはなかった。三郎は、頭山満の風貌と、落ち着いた振る舞いに強い関心を寄せていた。
ある時、社中の若者が、頭山の時計を盗み、質屋に入れてしまった。それが露見し、兄弟子に囲まれ、あわや殴られようとしたところに、頭山が来た。
「こっちヘコ」頭山は、若者に声をかけた。若者は、しおしおと頭山の部屋に参上した。(さては先生、お部屋で若者をひどく折檻されるおつもりか)と弟子達は、隣の部屋に詰めかけて、聞き耳を立てた。やがて、やりとりが聞こえてきた。
「いくらで質に入れた」
「五円です」
「五円やるから、受け出してコ。これから、物が欲しい時は、断って盗め」
若者は、ワーと声をあげて、畳に泣き伏した。この若者は、生涯、命をかけて、頭山を守護したという。
殴ることなく、相手を包み込む頭山の偉大さに三郎は、驚嘆しつつ、魅せられた。大きく温かい愛情と温容、それは三郎の中にはまったくない性格であった。

「頭山先生のような人物になりたい」と痛切に思ったのである。三郎の人間形成の指標が、ここでしかと定められた。怒ると狂暴的になる故に、"玄洋社の豹"とまでいわれた三郎が、生涯、頭山にゆうよう仕え、精進し、ついに悠揚迫らぬ「哲人・天風」となるのである。
[橋田雅人哲人中村天風先生抄より抜粋]

後年、三郎が改名するに当たり、頭山翁が居合術の技「あまつかぜ」から拝借し、天風と名乗るが良いといわれたのは有名な話であるが、私は生徒と接する際、いつも、この弟子を思う頭山翁の姿を思い浮かべ、自問自答する。これからも、翁の遠い、遠い背中を追い続けていきたいものである。

「頭山満の国体擁護運動」
現代日本主義研究会 小田内陽太


頭山はアジア各国の志士に対し多くの支援を行ったが、彼が日本人として最も心魂を傾けたのは、天皇の御存在を中心とする国体(国の歴史的・文化的特質、生命的・道義的共同性)を擁護する運動であった。
大正七年・ロシア革命を背景に日本革命(国体破壊)を扇動する記事を掲載した大阪朝日新聞社に対する抗議運動を展開、遂に同社を屈服させた。
大正十年、元老山縣有朋(当時枢密院議長)による皇太子殿下(後の昭和天皇)・久邇宮良子女王殿下(同香淳皇后)ご婚約への妨害策動に対し、皇室が藩閥政争の具とされる国体の危機を打開すべく運動、山縣を辞職に追い込んだ。
また同年の皇太子殿下御訪欧に対し、(大正天皇)御不例の際であること、不測事態発生の可能性を理由にご中止を請願、政府をして御旅行中の御安泰を期し奉るべく周到を尽くさせ、諸国政府をして御警護の万全を期せしめた。

大正十四年、大正デモクラシーの流れを受けて加藤高明内閣が選挙資格を二十五歳以上の全男子とする議案を提出したのに対し、頭山は貧富の差や年齢性別に関係なく戸主・世帯主を選挙資格とする「純正普選」を首唱した。
背景には、日本国家は「個」としての市民の最大公約数的利益の実現機関ではなく皇室を宗家とする一大家族共同体たるべし、という彼の国体的国家観があった。
「純正普選」は実現しなかったが、付和雷同しがちな一般国民を覚醒する上で大きな効果があった。
現在、万世一系の民族生命と日本の歴史・伝統・文化を体現し給う天皇の御本質についての国民の理解は低く、国体の一大事である皇位継承のあり方迄もが、皮相な考えの政治家や「有識者」の恣意により晦まされようとしている。
今日頭山精神の継承を念ずる上で、尊皇の大義の下に国難を打開した明治維新の初一念を忘れず大正期以降の逆風の中で闘ったその国体擁護運動を如何に再生するかを忘れてはなるまい。

「頭山翁を偲び国家の現状を憂ふ」
前拓殖大学総長 小田村四郎


不世出の巨人頭山満翁逝いて六十余年、以後我が国には翁に匹敵するやうな大人物は遂に現れなかじのむんった。
この間、大東亜戦争は痛恨の敗戦に終り、その結果神聖なる我が皇土は敵国の躁躍に委ねられ、遂には皇祖皇宗の御遺訓である憲法まで敵国によって書き換へられるといふ暴虐行為を敢てされた。のみならず敵国占領による圧政によって光輝ある国史が抹殺され、果ては国民精神もまた骨抜きにされてしまった。
漸く屈辱の外国占領が終り国家主権が回復して五十五年を経た今日に於ても、神州の正気は未だに復活せず、寧ろ地に堕ちつつある状況にある。次代の国民を育成する教育の内容についてまで外国の干渉を許し、護国の英霊に顕彰感謝の誠を捧げる首相の靖國神社参拝に対しても外国に誹諺中傷を擅にさせ、剰へこれに同調する有力政治家や知識人、財界人が輩出する始末である。
さらに国家の尊厳を守るべき政府自らが「村山談話」その他これに類する国辱談話を公表し、祖先の偉業を冒涜し国家の威信を傷つけて恥ぢない言動を取り続けてゐる。若し頭山翁御在世であればかかる亡国行為を黙視されることはなかつたであらう。
さらに驚くべきことに、神聖なる我が国体の核心である万世一系の皇統を断絶せしめようとする策謀が着々と進行してゐる。一昨年末から突如として浮上した皇室典範改正問題である。畏くも明治天皇が祖宗の御遺訓を明文化したものとして御制定になった皇位継承規定を、有識者と称する一部不敬分子の合議によって根底から改変しようといふ。かつて大正時代に頭山翁は「宮中某重大事件」(色盲問題)に際し、断固として東宮妃の御成婚をお護り申し上げた。今我々が直面してゐる問題の重大性、深刻性はこの事件の比ではない。我々は微力とは言へ、草奔の志を結集してこの策動を粉砕し、国家生命の根源である万世一系の皇統をお護りしなければならないと思ふ。

「いちばん書けない人物・頭山満翁」
拓殖大学客員教授黄文雄


私はかつて頭山満翁について書こうとしたが書くことは出来なかった。いつか書こうとも思っている。「アジアの巨人」とも称されるが、それだけでは語りきれない人物だ。
「先知先覚」を誇りとし、唯我独尊にして人を人とも思わないが、「国父」として中国人に称されている孫文までが、頭山翁の前でだけは頭が上がらなかった。頭山翁を慈母、犬養毅を厳父として仰いでいたことはよく知られている通りだ。
支那革命の中で孫文が最も評価されているのは、革命指導、「三民主義」等ではなく、革命資金づくりだけであった。革命を遂行するにはいくら資金があっても足りない。だから孫文は、日本人支援者から革命資金を取れるだけ取ってもまだ不足していた。そのため漢冶捧公司、鉄道、鉱山、税関、満州の利権に至るまで、手に入るものもまだ入っていないものも、すべてを日本人に売りつけた。しかし一〇回の起義はすべて失敗し、広州軍政府を三回つくったものの、すべて崩壊してしまった。とうとうレーニンに近づき、いくら党内からの反対があり、一人になったとしても共産党に加入するともめにもめた。
最後には北京政府との国是会談に向かうため、神戸を経由して北京に入った。孫文は神戸で、日本に対して東洋の王道を選ぶか西洋覇道の番犬となるかという「有名な講演」を行った。戦後になってその文言が繰り返して引用されているが、その講演内容は実につまらない暴論で、日本に対するゆすりたかりを行ったかのようである。孫文は自分自身で王道や覇道ではなく、もっと「民道」を説くべきではなかっただろうか。
そのとき頭山翁とも会い、かなり長時間にわたって語り合ったが、何を語ったのかは明らかになっていないものの、頭山翁からその人となりをかなりたしなめられたと私は想像する。だから北京において、孫文が臨終の際、日本人秘書に頭山翁の近況を訊ね、そして「革命功ならず」という言葉を遺したのだろう。少なくとも支那革命の歴史からみて、頭山翁の存在がなければ、中華民国の成立はありえなかったと思われる。
もちろん中国に対してだけではなく、アジアの国々の革命や独立に頭山翁の支援があり、一民間人としての頭山翁は、政治家に対する圧力だけではなく、その魅力と説得力で巨大なアジア革命の力となったのであろう。彼は最後の武士というだけでなく、国士の鑑でもある。
内村鑑三は、『代表的な日本人一のなかで、西郷隆盛二宮尊徳…と五名をとりあげているが、頭山満を入れていない。それは頭山が同時代人であったというだけでなく、内村に史眼と慧眼が不足していたからであろう。

「頭山満の時代と現代」
日本BE研究所主宰行徳哲男


日本の近代史を見つめ直すと、若き頭山満と玄洋社が自由民権運動から国権主義の雄として転戦して行ったことの絶妙なバランス感覚と、人間としての懐の深さを学ぶことが出来ます。
日本が近代国家として潜り抜けて行かなくてはならなかった当時の国際関係への認識と独立への強い意志は、それこそ一級の国際人としての視点を持ち備えていたからであると言え、民権主義と対比するばかりの浅薄な戦後史観ではその大きな思想と行動を捉えることなどできないことです。
孫文はじめアジアの独立運動家を在野の立場で支援した頭山満のほんとうの姿の解明が今ほど大切な時代はないと思います。
今日の国家としての気概なき外交や、私利私欲に走るばかりの日本のリーダーたちの現実を見るたびに、武士道精神は何処に消えてしまったのかと嘆くばかりです。
頭山満を通じて近現代史を見直して行きたいと思います。

「近代史を見直せ」
拓殖大学副学長 草原克豪


明治維新以降の日本には、国策としての近代化路線と、在野における反列強支配という二つの思想的な流れがあった。前者が「脱亜入欧」を目指したのに対し、後者はあくまでもアジアとの連帯を強調し、「興亜」を目指した。
彼らアジア主義者たちは一貫して政府の対列強消極外交を攻撃し、中国や朝鮮との連携を訴えて、政府に圧力をかけ、強硬な言動を繰り返した。
頭山満はその中心的人物として、金玉均ビハリ・ボースらの亡命政治家を保護し、孫文ら中国人革命家の日本での活動を支援した。
だが、戦後になると「右翼の巨頭」といった=言で片付けられ、その事績が顧みられることも少なくなった。
日本とアジア諸国との関係構築が大きな課題となっている今日、我々に必要なのは、誤った先入観や色眼鏡なしに近代史を見直し、官民を含めた重層的な係わり合いの中でアジアを捉え直すことではないか。
頭山満翁生誕百五十年祭がそのきっかけとなることを期待したい。

「頭山満翁と国士舘」
国士舘大学理事長 佐伯弘治


京都大学文学部国史研究室編纂の「日本史辞典」(昭和二十九年十二月初版)は頭山満について「西郷隆盛を理想人物としており、晩年国士舘なる塾をもって、壮士養成につとめた」と記している。
壮士養成は些か大仰であるが、頭山が国士舘の創設に深く関わり、建学の理念の形成に指導的な役割を果たしたことは確かである。
国士舘が、国家有為の人材育成を究極の目的として、東京市麻布区笄町に私塾を開いたのは大正六年十一月四日である。創業の実際に携わったのは柴田徳次郎、上塚司、阿部秀助、花田半助、喜多悌一(後、山田に改姓)等の青年有志と、長瀬鳳輔(ベルリン大の哲学博士で初代の国士舘学長)、小村欣一(侯爵)の両碩学であった。
頭山は当初から野田卯太郎(政友会副総裁、原敬内闇の逓相などを努めた)田尻稲次郎(財政学者で子爵・東京市長を務める)と共に顧問として青年有志たちの相談に与かり、併せて講師として講壇にも立っている。講師陣には、他に永井柳太郎三宅雪嶺徳富蘇峰中野正剛大山郁夫らの名も見られる。
大正八年には財団法人の認可を得、校地を世田谷に移して新校舎を建て、修業年限三年の国士舘高等部を開校した。筆頭顧問であった頭山はその人脈を駆使して、学園の建設費や運営資金の調達に力を尽くしている。
因に、頭山の長男立助は高等部の第一期生として国士舘に学び、卒業後は法人の監事の任にあったが昭和十六年七月三日、五十歳そこそこで父に先立っている。
頭山自身は昭和十九年十月五日、他界おもしの日まで顧問として学園経営の重石的な存在であった。
十一月十九日、国士舘では、学内において頭山満翁祭を行い、創立以来の大功労者の霊を弔った。
当日は国務大臣緒方竹虎など、頭山ゆかりの人士の参列も多かった。

「葦津珍彦と頭山満」
国学院大学教授 阪本是丸


頭山満の名を知ったのは、故葦津珍彦の著「大アジア主義と頭山満」からであった。その葦津の著に「もともと頭山という人物が、文章とか記録とかを残した人でない。ほとんど第三者の観察談とか回想談のようなものばかりである。だから厳格な意味での史実的正確は期しがたい」といふさりげない文章がある。
この文章と同義のことを、小生は葦津からしばしば聴いたことがある。端的に言へば、「変説は良し、変節は悪し」との葦津翁の戒めであった。学徒にとって、「史実的正確」を期すことは「変説」を厭はないことである。だが、その「変説」には確乎たる前提が必要である。その前提とは、頭山の言ふ「学問の要は、先づ自己の何物たるかを究めることだ。さうして自分は何の使命を持って生まれたかを考へよ」との言である。この己の使命を考へることが節操であり、それは決して「変節」してはならぬものである。これを教へてくれたのが葦津珍彦であり、頭山満であつた。

「東京裁判史観の克服」
辮護士 高池勝彦(祝電より)


東京裁判史観の克服が叫ばれて久しい。しかし、栗山元外務次官元駐米大使が、靖國神社は、先の大戦を、大東亜戦争といってゐる、大東亜戦争といふ言葉は侵掠戦争を正當化するものであり、このようなことは認められないといふ趣旨のことを書いてゐるくらゐ、東京裁判史観は、今や政財學界のトップにまでしみこんでゐる。法曹界も例外ではない。いはゆる戦後補償裁判において、補償を認めない結論を出しながら、傍論において、侵掠戦争論を滔々とのべる判決が少なくない。
靖國問題も、教育問題ですら、東京裁判史観の克服なしには解決できない。東京裁判史観の克服は、常識と事實の正確な認識である。東京裁判史観にとらはれてゐる者は要するに勉強不足なのである。
常識にたって、當時の事實をできるだけ客観的に把握しようとすればおのづから東京裁判史観は克服できる。しかし、これが現状ではむづかしいのである。

「頭山満翁を偲ぶ」
拓殖大学客員教授 伊達宗義


「仁侠の国士」「漢の高祖劉邦の如き人物」などと評された頭山満翁は、無私に徹し道義を貫き通したまことに国家の柱石の如き存在であった。はなばなしく世の表に立って動かれることはなかったが、陰然磐石の重みを持って世に臨み、日本が正しい道を歩むよう大きな影響力を発揮された。
いずれの国もその国の国益と国威を揚げることを望んでおり、わが日本もまた当然国益を伸張し国威を宣揚しなければならない。しかしそれはただひたすら経済の発展にばかり目を向け、いたずらに他国に阿ることによって形ばかりの平和を図ることであってはならないはずである。真の国益とは他国、他民族から尊敬されることであり、真の国威とは国の尊厳を高めることである。
ひるがえってわが国の現下の状態を看るに、軽佻浮薄な気運は世に瀰漫し、人心の荒廃は目を覆うばかりであり、上下挙って私利私欲に走り、道義は地を払って見る影もない。しかもこうした状態を是正、改善する方策は遅々として進展していない。
このような有り様では到底国の尊厳を守ることも、他国他民族の尊敬を受けることも望むべくもあるまい。一体このままで推移すればわが国の将来は危殆に瀕するばかりではないのか。この日本を正しい日本に引き戻すためわれわれは、それぞれがそれぞれの持ち場に於て渾身の努力を尽くすよりほかの道はないが、こうした時、念頭に浮かぶのは偉大な頭山満翁の存在である。今こそ日本は頭山満翁の如き尊師を必要としているのである。頭山満翁生誕百五十年に当り翁追慕の念、まことに切なるものがある。

「『皇位継承』問題に関する管見」
京都産業大学法学部教授 所功


かつて頭山満翁の御令孫たちが解説を加え出された福沢諭吉の『帝室論』は、いま皇室の在り方を考え直すにも役立つ。明治十年代には、帝国憲法と皇室典範の制定に向けて、元老院の『国憲按』でも、民権論者の新聞・雑誌などでも、女帝・女系の継承を認めるか否か、真剣に論議している。
それから約百二十年後の今日、皇室には皇太子(四十五歳)、秋篠宮(三十九歳)より若い男性皇族が居られない。そこで、皇位継承有資格者を「男系の男子」に限る従来の皇室典範を見直す必要に迫られ、小泉首相の設けた有識者会議で一年近く検討の結果、「女性天皇・女系継承」を容認するに至った。ところがその最中、三笠宮寛仁親王殿下は、福祉団体「柏朋会」の会誌『ざ・とど』第八十八号所載随筆で、「女帝」否定論を"おしゃべり"されている。それを拝見して驚き入るのは、従来の男系男子限定主義を貫くための方法論として、「元皇族の皇籍復帰」と「その方に皇位継承権を与える」のみならず「"側室"を置くという手もあります。私は大賛成ですが」云々と述べておられることである。これは「ともさん(殿下の愛称)のひとり言」として黙過するわけにはいかない。旧皇室典範の認めていた側室を断固拒否されたのは、皇太子裕仁親王=昭和天皇であり、その大御心を中実に継承されているのが今上陛下および皇太子殿下だと拝察される。
いま皇族に必要なことは、今上陛下のもと全員で一致協力して公務に励まれることであろう。また我々国民は、皇位の世襲を永続していけるような典範改正に踏み切るほかないであろう。

「日本とインドネシア」
ASEANセンター代表 中島慎三郎


一九〇五年、日本がロシアと戦って勝った時、ロシアに隣接するイスラム国は感謝感激だった。日本が大東亜戦争を起こした時、天皇陛下の詔勅は、「米英が敵」と明言なさっている。この詔勅を読んだアジア・アフリカの各民族は「我々は非力なので、日本軍に応援できないので申し訳ない」と言っている。一九四二年二月十五日にイギリス東洋艦隊の基地シンガポールが陥落したら、チャーチル首相は号泣したが、アジア・アフリカの各民族は「欣喜雀躍した」ので為る。(中島はこの戦争に参加した)
日露戦争直後に、日本にアジアから留学生が殺到した。その中に周恩来蒋介石とジャテクスモ王(ソロ)がいる。そのころから、日本の民間人は、今のASEAN地区(フィリッピンとベトナムとタイとインドネシア)に向った人が多かった。その一人岩田愛之助はスカルノ、バッタ等を応援した。
戦争中の岩田愛之助は、海軍に所属してスカルノとバッタに「私は頭山満先生の弟子です。私と同じように、頭山先生の弟子を自負する生命知らずの男は何千人もいます。頭山先生の友人には犬養木堂(首相)がいるし、孫文は頭山先生を慈父と慕っていた」と言い。スカルノとバッタが心から感謝していたところの日本人は市来龍夫(アブドル・ラフマンは目玉が非常に大きいし肌は黒い。熊本県人?)と吉住通訳(山形県人)は金子智一(後に日本インドネシア協会副会長)に「私は頭山先生の弟子です」と言っている。一番大きくインドネシアに寄与した人物は本願寺の大谷光瑞師と石原産業の石原紘一郎社長と千代田デパート岡野社長(静岡県)である。この連中も「頭山先生と犬養木堂がいるので、我々は国家の為、アジアの為に尽すことが出来ました」と言っている。

「レッテルを越えた懐の深さ」
元衆議院議員 長谷百合子(呉竹会幹事)


GHQとそれに追随する左翼文化人は故意に頭山満を超国家主義者にしたてあげて、歴史の影響力を抹殺しようとしました。残念ながら戦後の日本はその価値観を受け入れ、右翼・頭山満という虚像を信じ込まされて来たのです。
そのいくつかの理由として、選挙大干渉や対露同志会、満州や日韓併合での急先鋒であったことを掲げています。

しかし、日清戦争間近の国際情勢のただなかで、当時の民権派と称する人々があまりにも、非現実的な島国的発想に陥っていたことを考えるならば、頭山の決断は当を得たものであり、むしろ政府の右往左往ぷりに呆れた頭山が、アジアの独立運動支援に傾斜していく思いが伝わって来ます。
頭山満は、右翼、左翼といったレッテルを越えた懐の深い存在だったのです。

「大西郷遺訓と頭山満」
国際問題アナリスト・拓殖大学客員教授 藤井巌喜(呉竹会幹事)


今、私の前に箱入りの一冊の古書がある。
『大西郷遺訓・立雲頭山満先生講評』奥付には大正十四年三月十日初版、大正十五年九月十一日二十版発行、発行所=政教社(東京市芝区)、定価一円三十銭とある。数年前に神田の古書店で八百円で求めたものである。
本文に赤鉛筆の傍線がずい分引いてあり、表紙に「神州修道会」の判が押してある。あとがきも含め全文百六十三頁。目前に立雲先生がおられて、講義を聴かせて頂いているような有難いご本である。
口述筆記の為に、立雲先生の言葉が判り易く、是非多くの方に読んで頂きたいものと思っていた。
復刻の要を「月刊日本」主幹の南丘喜八郎さんにお話ししてきたが、今回の百五十年祭にあたり、どなたの発案かは存じ上げないが、頭山興助先生の承諾もあり復刻が実現したのは、真に喜ばしい限りである。
本書の本文の最後には、立雲先生の「西郷の心、是天の心ぢゃ』の一言が置かれている。全編に溢れるエピソードも一度読めば忘れ得ぬものばかりで、立雲先生の言葉により、生きた西郷先生が目の前に蘇ってくるようでもある。

「教育基本法改正に思う」
『月刊日本』主幹 南丘喜八郎


いま国会で行なわれている教育基本法改正論議の焦点が、「愛国心」を書き込むか否かにあることを知り、唖然とせざるを得ない。家族を愛し、朋友相信じ、一旦緩急あれば義勇公に奉ずるのは、国民国家の一員として至極当然のことであり、何等の議論も必要としないことである。
『西郷遺訓』に曰く、
「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を盡し人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」
「道を行ふ者は、固より困厄に逢ふものなれば、如何なる艱難の地に立つとも事の成否身の死生杯に、少しも関係せぬもの也」
教育の基本はすでに西郷隆盛が「遺訓」の中で表現を変えながら、繰り返し説いているところである。.
私は『遺訓』の次の一節を、改正教育基本法の冒頭に掲げることを提案したい。
「道は天地自然の道なる故、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を脩するに克己を以て終始せよ。
己に克つの極功は「意なし、必なし、固なし、我なし」と云えり。総じて人は己に克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ」
西郷さんのような寛容心
評論家・作家・拓殖大学客員教授 宮崎正弘
頭山満翁は西郷さんのような、大きな風呂敷のごとき寛容心をもった人物である。
孫文を支援した数多くの日本人のなかでも、政治的リアリズムを求めず、世俗の欲望を捨て、名も要らぬ、金も要らぬ、名誉も要らぬという、日本古来の武士道が理想とした、誠実と信義をひたすら追い求めた。
その生き方はシナ人にはない発想であり、人生観であり、ために政治的に利用されやすい。
ソ連のアーカイブからスターリン時代の膨大な機密資料を見つけだして、共産革命のおぞましき実態を抉った、ユンチアンの傑作『マオ』には、さりげなく「ソ連のスパイ―宋慶齢」という表現が数ヵ所ある。つまり孫文再婚の背後にさえ、このような謀略の図式が横たわっている。「革命家」としての孫文の晩年は、周囲をソ連のエージェントで取り囲まれていた。それを認識していたはずの頭山翁は、しかし信念と約束を理想として高く掲げ、孫文への支援をやめることがなかった。だからこそ頭山翁は、行く道を照らす満月のように、輝いているのである。

「日本人を魂の無国籍者としないために」
著述家 弥谷まゆ美


日本が本来、怯まず、阿らず、偽らない、衆にすぐれて品位ある精神性の国であった事実を、若い世代に向けて示さねばならないときが来た。
現代の日本人は、個人の利益と保身を計ることにのみ汲々としている。小我に囚われきった群れの姿である。それとは対極のところで願い、考え、行動し、後進を育てたのが、頭山満という人であった。満翁が持った唯一の欲は、大我という欲である。
翁は、卓越した先見力と直感力と知性とで大局を見極め、行動した。にも拘らず自らを、「自分の一生は大風の吹いたあとのようなもので、あとには何も残らない」と評した。一見、風流人の一面を持つ人らしい瓢逸な戯言だが、じつはこの言葉は私たちにとって、私たち自身を問い直す大きな手掛かりとなるのである。
満翁の頭には、我が身一身のことが存在しなかった。ゆえに生涯を通じて、名利は不要とし、自らの業績を喧伝することにも関心がなく、世評を恐れなかった。日本の未来とアジア全体の未来のために現状において何を為すべきか、という大目標に心を絞り込み、それのみを行動原理とした。
戦前戦中の日本が置かれた様々な難局において、翁の『大風』は吹いた。しかし、残念ながら敗戦後は、戦後史観とやらの虚偽にさえぎられて、(また、翁自身が自らを語り残すことを好まなかったせいもあり、)その真実の姿が一般に伝えられていない。
ついでに、翁のめざましい無私の精神、その精神の中核をなす「旺盛なまこと』とも名付けるべき士魂にも、ぴったりと蓋がされている。
結果、現在の巷には、日本のことも日本の精神も知らない、何国人か判らない日本人があふれている。だが、国民が祖国を正確に知ろうとせず、ただひたすら祖国を悪しざまに罵ることに喜びを覚える、などという状況からは、どんな未来も生まれようがないのだ。

「浩浩居出身者から見た頭山満先生」
シンクタンク山崎養世事務所代表 山崎養世(修猷館OB)


小生は旧筑前黒田藩校修猷館の出身であり、大学時代は広田弘毅先輩が設立され玄洋社とも縁の深い浩浩居でお世話になりました。
頭山満先生の生涯はあまりに巨大で、現代において理解がはなはだ不十分であるのが残念です。先生の根幹にあったのは自由民権思想であり、また、アジアが封建支配からも欧州列強の侵略からも独立し、東洋の道義に基づく国際秩序を打ち立てるために、自らの危険も顧みず各国の独立の志士を応援されたと存じます。しかし、先生の慧眼に学ばず、アジアは西洋流の帝国主義と共産主義に分裂しました。
二一世紀の日中韓は、戦前はもとより三〇年前と比べても、はるかに同質的な社会になっているにもかかわらず、お互いにいがみ合う嘆かわしい現状です。世界がグローバリゼーションの限界を超えるために三国が東洋の知恵を持ち寄ることなど夢物語です。いまこそ頭山満先生の遺訓を改めて学ぶときではないでしょうか。

東京都知事 石原 慎太郎(祝電より)

本日、「頭山満生誕百五十年祭」が盛大に開催されますことを心よりお慶び申し上げます。
我が国は今、戦後日本を支えてきたシステムを抜本手的に見直し、新しい国のかたちを作る必要に迫られているにも拘わらず、国政からは危機意識が感じられません。
私は、東京から日本を変えるため、国に先んじて様々な独自の手立てを講じてまいりましたが、これからが正念場です。
国を想う心、国のために行動する気概なくして、新たな国家の創造はありえません。「頭山満生誕百五十年祭」にご参集の皆様におかれましても、氏の精神と行動に想いを馳せ、日本再生に向け、共に頑張りましょう。
終わりに、ご臨席の皆様のご健康と今後益々のご活躍をお祈り申し上げます。


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