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頭山満翁最後の戦い

昭和16年9月24日 87歳を迎えられた頭山満翁のところに電話がありました。

「宅まで来て欲しい」東久迩宮でした。

頭山翁は三男の秀三氏(頭山興助会長の父上)を連れて早速訪ねると、

宮が、日支事変が不本意にも拡大の方向に突っ走りはじめ、

軍はさらに南方進出を意図しても米英と戦うとばかりの強きであることを憂いて、

「頭山君、どうか重慶まで行って、蒋介石と会い、この泥沼化しようとしている

日支関係を和平に持ち込んで貰えないだろうか」と頼まれたのだった。

宮は、頭山翁が、玄洋社挙げて孫文の指揮する辛亥革命を全面的に支援して

成功させたことを良く知っておられ、その際に、
孫文の側近であった蒋介石総統が、頭山翁を慈父のように慕っていた
ことを承知していました。

頭山翁はこのとき、既に軍部の独走、
言論機関を巧みに使っての国民世論の盛り上げ、などを思うとき
非常に困難な使命であることを痛感しましたが、

宮の依頼は、大アジア主義の真髄でもあり、

「わかりました。私も90が近い年です。最後のご奉公に身を賭して重慶へ参りましょう」

と力強く確約をしたのでした。

頭山翁は帰宅の途中に、
玄洋社のメンバーである、

緒方竹虎(朝日新聞)、中野正剛(衆議院議員)、広田弘毅(元総理大臣)
の三人を呼びました。

既にこの使命をどう展開していくかの構想ができていたのでしょう。

緒方氏には、朝日新聞社の特派員を使って、
重慶の蒋介石との連絡をつけさせ、
会談が実現したら和平へのキャンペーンをはらせること。
中野氏には、国会対策をさせて、日本側の積極行為を中国に表舞台でも示すこと。
広田氏には、元総理経験者として、重臣会議を動かすこと。

それぞれを頼み、早速、行動を始めたのでした。

蒋介石から「頭山翁だけとなら会いましょう」
と自らの写真に返事を書いてもらえたのが、11月中旬でした。

ところが、広田氏が、和平のためには東久迩内閣を誕生させるためにと奔走し、
渋る宮を説得して、第三次近衛内閣の総辞職後の重臣会議で、
自信を持って宮を推挙したところ、重臣は誰一人賛成するものなく、

木戸内府の提案による東条英機陸相が総理となり、日本の運命は決定するのです。

軍部は既に、かかる和平工作の動きを察知しており、
東条総理で根回しが出来ていたのでした。

広田氏は唖然として重臣の顔を眺めたそうです。

それでも、宮は東条総理が喜んで協力してくれるものと信じて会いに行って、

日支和平工作の経緯と頭山翁を重慶に送る為に、飛行機その他の手配を頼んだところ、
東条総理は「その様な重要な問題を陸相兼務の総理に何の相談もなく、
勝手な行動をとられたは困る」と足下に拒絶されたのです。

東久迩宮はいたく落胆されました。

それはまた、第二次世界大戦に日本が突入しなくても済んだ
チャンスを逸したことになるのです。

中国との和平が一日遅れれば、日本は泥沼にはまり込んでいくばかりだ」
と和平に奔走した緒方氏の願いも報われませんでした。

中野氏は、その後、「道義の為に憤りを発し、身を挺して難にあたる」
という信念のもとに、東条内閣に抗議して、頭山翁に遺書を残し自刃。

頭山翁も、昭和19年10月5日に、終戦を迎えずして永眠されます。

12、3歳の頃から玄洋社に出入りして、頭山翁の薫陶を受け、
孔子の「未だ見ざる人」そのものと慕っていた広田氏も、
A級戦犯として刑場の露に消えたのでした。

 

玄洋社記念館発行の「玄洋」より抜粋させていただきました。


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